ブログを書いていても、この文章ってはたして読まれるのか、とよく考える。運よく本ブログに目を留めていただいたとしても、そこから何か感じてもらえたのか、と不安にも思う。
どうにも自分の書いた文章が魅力的に思えないのだ。それなりに書けたと思った文章も、次の日に読み返してみると、「なんかカッコつけてるやん」「ありきたりやな」と自己嫌悪に陥って書き直し、一度は下書きに保存するも、そのまま削除なんていうことも何度となく起こる。
そこには、どこからか借りてきたような、とってつけたような言葉があちらこちらに並んでいる。結局なにが伝えたいの…と思うような文章。別に日本語が間違っているわけではないけれど、どこか気持ちがこもっていないというか、右から左にただ何となく流れる単なる文字の集まり。
書けたと思った文章もこのありさまなのだから、自分で読むのも恥ずかしい、なかったことにしよう、と思う文章も数多い。
それでも、「好きで書いてるだけやし…」と言い訳しながら、なんとかブログにアップしている。
少し話は変わるのだが、実家に帰った時のこと。ご近所さんから手作りクッキーをいただいたと、おすそ分けしてもらったのだけれど、このクッキーが実に素朴で美味しかった。少し固めで歯ごたえのあるそのクッキーは、プレーンとチョコレート味。どちらもほどよい甘さ。市販のお菓子とは違い、形も大きさも均一ではないし、端が少し欠けているものもある。そこも手作りならではの味わいなのだ。
ふと、古池ねじさんの小説『京都烏丸のいつもの焼き菓子』にでてくる一節を思い出した。
「焼き菓子というのは、ただお砂糖と小麦粉と玉子とバターを混ぜ合わせて焼いただけものではありません。」
『京都烏丸のいつもの焼き菓子』 Kindle版 P254
おそらく、どの家庭にもある材料だし、レシピを見れば(それなりの)クッキーは作れそうではある。けれど、そこに作る人のいろいろな気持ちがこもっているからこそ美味しいのだ。美味しい焼き菓子を作る人には、それを美味しそうに食べる人の笑顔までが浮かんでいるのかもしれない。
実家で食べたクッキーを焼いてくれたご近所さんは、趣味で焼かれているそうだが、やはり作りながら、食べる人の笑顔を思い浮かべ、美味しくなれと心を込められているのだろう。そして何よりもご自身が存分にお菓子作りを楽しまれているのだろうと想像している。
これまでには、焦がしてしまったり、バラバラになってしまったり、などという失敗作もあったに違いない。でもそうして、自分が楽しみ、誰かに食べてもらえることがうれしくて続けているうちに、もっともっと美味しいクッキーが作れるようになるのだろう。
文章を書くのもそう。日本語は使えるし、言葉も文章の書き方もそれなりに知っている(つもりでいる)。でもそれだけでは、読む人に何かを感じてもらえる文章にはならないのだ。誰かの言葉を引っ張ってきて、こねくり回して書いた文章じゃなく、読んでくれる人を想像して、自分の言葉で書かなければ、良い文章にはたどり着けない。
プロの作家さんが書かれる文章は、「こんな楽しいことがあった」とか「こんな美味しいものを食べた」とか、日常のたわいのない雑談的な内容であっても、スッと入ってくる。楽しさや美味しさがちゃんと伝わってくる。その文章には無駄な言葉がないし、借り物の言葉でもない。適切な長さでリズム感があって、読んでいてとても心地いい。
それでも、作家さんのエッセイやインタビュー記事を読んでいると、「いつまでたってもいい小説が書けない」とか「最初の一文で何日も悩む」とか書かれている。プロの作家さんにして、こんな風に思われている”文章を書くこと”ってなんと奥深いことか。
もちろん、プロの作家さんと素人の私では、そもそものレベルが違い過ぎるのではあるが、せめて、自分の好きなこと、思ったことを、素直に書きたいと思うし、誰かに何か感じてもらいたい。
油断するとすぐに余計な言葉が入り込むし、思ってもないようなことを書きそうにもなるし、”素直に書く”のもなかなか難しい。けれど、趣味で書いているブログだし、「ごちゃごちゃ考えんと、好きに書けばいいやん」の言い訳(気楽さ)を持ちながら、ご近所さんの手作りクッキーのように、少しでも味わいのある文章が書ければと思って今日もブログを書いている。










